灰干しの製法

ノルウェー産サバへのこだわりも

創業100年余 先人の知恵を進化させこれからも美味しい干物をお届けします

なぜ? 海の近い勝浦でノルウェー産のサバを使うの?
その理由は松田商店の歴史とも深く関係しています。

創業より100年余。時代の流れに寄り添い、お客様に喜んでいただきたい一心で魚と向き合ってきました。少し長い話になりますが松田商店の歴史や先人たちの心に触れていただければ幸いです。

  • 灰干し松田商店の歴史03

    昭和16年三笠宮寛仁親王ご成婚のおり、千葉県からの献上品として各社有名企業の醤油と共に松田商店の鰹節も納められました。

  • 灰干し松田商店の歴史03

    古い写真でわかりづらくはなっていますが拡大するとうっすらと松田商店の文字が読み取れます。

創 業 期 〈明治〜大正〉

 松⽥商店は創業の年は定かではないですが初代 松⽥義雄(明治24 年勝浦⽣)が明治40年頃に北海道に修⾏に⾏きその後、東京⽇本橋の乾物屋に就職。そこで、北海道で培ったルートで乾燥スルメイカを北海道から輸送して成功したそうです。
 しかし、跡継ぎで漁師だった⻑男が明治44年4⽉4⽇に船で出向したまま帰らぬ⼈となり、そこで次男だった義雄が⽇本橋より勝浦に帰ってきて⼤正初期に松⽥商店を創業しました。
 創業当時、東京の⿂市場は⽇本橋にあり⽇本橋時代に築いた⼈脈で勝浦から⽣のカツオ・サバなどを卸していたようです。(関東⼤震災までは⿂市場は⽇本橋にあり関東⼤震災で壊滅。その代替として築地の海軍省所有地を借り受け臨時の⿂市場を開設。これが築地市場の前⾝となります。)

2代⽬ 松⽥源蔵が鰹節づくりに着手 三笠宮親王ご成婚時には献上品として納める 〈昭和初期〉

 2代⽬ 松⽥源蔵(明治41年⽣)は明治44年4⽉4⽇に亡くなった⻑男の⼦供でした。初代義雄が昭和初期に2代⽬源蔵を静岡県清⽔に鰹節の修⾏にだして、修⾏から帰ってきてから勝浦で⽔揚げされたカツオを使い初代と2代⽬で鰹節を作り始めました。
 2代⽬源蔵は仕事が丁寧で良い鰹節が認められ三笠宮寛仁親王ご成婚(昭和16年)の千葉県からの献上品としてキッコーマン醤油・ヒゲタ醬油・ヤマサ醬油と共に松⽥商店の鰹節も納められました。
 納められた鰹節は2代⽬が切り、初代がカビ付けをしたそうです。
 その後2代⽬は太平洋戦争で満州に出兵。昭和18年に負傷して⽇本に復員。その後の負傷兵は戦況の悪化により帰れなかったそうですから幸運も重なったと思います。
 復員してからは鰹節・サバ節・煮⼲しを作り鰹節作りの合間に勝浦で⽔揚げしたサバを天⽇⼲しにして⼲物も作っていたようです。

3代⽬ 松⽥征男 ついに灰干しを始めるも、一度は辞める!? 〈昭和中期〜後期〉

 3 代⽬ 松⽥征男(昭和19年⽣)は⾼校卒業後、家業を継ぎます。昭和38年頃2代⽬と共に鰹節・⼲物を作り始めるが鰹節は⾮常に⼿間が掛かるために昭和40年頃に鰹節は辞めて⼲物だけとなりました。その頃、東京千住にある灰⼲しをしている⼲物屋で3代⽬征男が灰⼲しを教えてもらいます。その頃は、灰⼲の事を⽂化⼲と呼んでいたそうです。
 昭和40年頃、勝浦で⼲物の原料となる勝浦産のサバの⽔揚げが激減します。その頃冷凍技術が向上して原料が冷凍で輸送出来るようになります。北海道から冷凍ニシンが原料で運ばれそれを灰⼲し(⽂化⼲)にしたのが松⽥商店の灰⼲しの始まりです。
 その後、カレイを灰⼲しにして出荷していた様です。灰⼲しは⼿間がかかる為に(当時は⿂を⼲して濡れた灰を乾燥させるときに鰹節を煮る時に使⽤していた⼤きな釜に灰を⼊れて炒って乾燥させていたそうです。その時にガスバーナーで釜を熱する作業が怖かったと3代⽬は⾔っています。)乾燥機で乾燥する⼲物が昭和50年頃から主流になります。
 松⽥商店も昭和55年頃から冷⾵乾燥機を使い灰⼲しを辞めてしまいました。

  • 初代 松田義雄

    初代 松田義雄

  • 2代目 松田源蔵

    2代目 松田源蔵

  • 3代目 松田征男

    3代目 松田征男

4代⽬ 松⽥義征 灰干し復活 〜ノルウェー産サバとの出会い 〈平成〜現在へ〉

 4代⽬ 松⽥義征:以下=私(昭和46年⽣)は⼤学卒業後、家業を継ぎました。私が家業に⼊った平成7年頃は3代⽬征男と共にホッケ・サンマの冷⾵乾燥を主に作っていましたが平成9年頃、ホッケ・サンマの⼲物の売り上げが減少ししました。
 困った私たちは築地⿂市場の私の師である⽅に助⾔を求めました。何か売れているものはないか尋ねると「今、灰⼲しが売れているよ。作れる?」と、⾔われました。そこで、3代⽬征男は灰⼲しは昔やっていたから直ぐに出来るよ。と、⾔いました。
 それが灰⼲し復活の始まりでした。
 当時、国産サバからノルウェー産のサバに移⾏していた時期でノルウェー産のサバの灰⼲しが売れていると教えてもらいました。ノルウェー産のサバも灰⼲しも私はそれまで⾒たことも聞いた事がありませんでした。ノルウェー産のサバは脂質が多いために切ると柔らかくて切りにくく最初は苦難を強いられました。
 灰⼲しは3代⽬征男に教えてもらいながらノルウェー産のサバ灰⼲しが完成しました。⾷べてみたところ、脂ののりが凄くて美味しいなと、いうのが第⼀印象でした。
 そこで、ほかの作り⽅では味や⾒た⽬にどのような違いがあるのか⽐較するために、天⽇⼲しや、冷⾵乾燥機でもノルウェー産のサバで⼲物を作ってみました。結果は、天⽇⼲しや乾燥機で作ったサバはノルウェー産のサバの特有の⾝が柔らかいために、サバの⾝が割れてしまいました。そのため、割れた部分から脂が漏れ出してしまい、ノルウェー産のサバの⻑所である、脂ののりの良さが失われてしまいました。
 なぜ、灰⼲しと天⽇⼲し、乾燥機を使ったサバではこのような違いが⽣まれてしまったのでしょうか。その違いは、灰⼲を作る時の過程にありました。灰⼲しにする時にはパルプが原料のセロハンで⿂を巻きます。セロハンには⽔分しか通さないという性質があり、その性質により脂や旨味が外に出ずに乾燥できる事に気づきました。
 それから25年経ち、灰⼲しは脂があって実⾝が柔らかい⿂に適しているという事が分かってきました。

先人たちの培った技術がなければノルウェー産サバを美味しくすることはできなかった。
歴史に感謝し、これからも美味しい灰干し干物作りを続けていきます。

 初代、2代⽬の⿂を扱う技術、3代⽬の灰⼲しの技術が統合して4代⽬の私に引き継がれています。現在も灰⼲しを⼲すセイロは2代⽬が鰹節を燻す時に使⽤した昭和初期に作ったセイロを使っています。灰を乾燥する際は60年前のガスバーナーではなく乾燥機が灰を乾燥させてくれます。時代に合ったやり⽅で昔の技術も⽣かしつつ今の松⽥商店があります。
 最初に戻りますがなぜ? 勝浦でノルウェー産のサバ?
 お分かり頂けたでしょうか。
 昭和初期は勝浦で⽔揚げされたサバで⼲物を作っていました。昭和40年頃にサバは⽔揚げされなくなりその時期に冷凍技術が発達し始め冷凍⿂の⼲物の加⼯が可能になり冷凍⿂を使い灰⼲しをはじめました。昭和も後半になると輸⼊⿂が多くなっていきます。平成に⼊り⼲物の⼤半は輸⼊⿂になります。
 100年の時の流れの中で昭和初期の鰹節・サバの⼲物作りの技術、昭和中期の灰⼲し、平成の輸⼊⿂ノルウェーサバの3つの出会いがありました。
 始めは、築地の師に進められて作った灰⼲しサバですが松⽥商店の歴史とノルウェーサバの出会いは初代、2代⽬、3代⽬が真剣に⿂の加⼯に向きあったからこその結果だと思います。その結果、3つの融合が素晴らしい⼲物を作ってくれました。
 上⼿くは説明できませんでしたが勝浦でノルウェーサバの灰⼲しが作られる様になった歴史です。

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